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97年11月

山口 正司             


1997年11月 1日 土 晴      収束 1997年11月 2日 日 晴      待ち合わせ 1997年11月 3日 月 晴      何月何日 1997年11月 4日 火 晴      街の中に 1997年11月 5日 水 晴      気づかない疲れ 1997年11月 6日 木 晴      伸び伸び 1997年11月 7日 金 晴      マズローの欲求五段階説 1997年11月 8日 土 晴      チューリップ 1997年11月 9日 日 晴      撮影 1997年11月10日 火 晴      トランプ神経衰弱 1997年11月11日 火 晴      遁走 1997年11月12日 水 晴      無線機 1997年11月13日 木 雨後曇    遊び 1997年11月14日 金 雨      株式市場 1997年11月15日 土 曇      睡眠 1997年11月16日 日 曇後雨    さい配 1997年11月17日 月 雨後曇    銀行倒産 1997年11月18日 火 曇      回線 1997年11月20日 木 曇時々雨   リース作り 1997年11月22日 土 雨      経営が破綻 1997年11月23日 日 晴      置いてきぼり 1997年11月24日 月 晴      三連休 1997年11月25日 火 晴      山一証券の廃業 1997年11月26日 水 雨      誕生日 1997年11月27日 木 晴      別の日に 1997年11月28日 金 曇      水着 1997年11月29日 土 雨      丹念 1997年11月30日 日 曇      歩かない街
1997年11月 1日 土 晴      収束

 航平の風邪は大分よくなって、昼間外食に出た。その後、公園でひとしきり遊んで、帰宅。

 サッカーは韓国戦に勝てて良かったねえと言いながら、夕食。急に悪寒がして、のどの痛み。そのまま、ベッドで眠りに入ってしまった。

 チャコちゃんは
「いいわねえ、逆の立場でも私はそんな風に早い時間から眠れないわ。」
と言っている。
 「そんな気を遣わずに眠ればいいのに。」
と答えるが、まかして航平の世話がきっちりと出来るかが心配らしい。

 いつも、チャコちゃんが万全をきっちりとしているから、私だけでは出来ないと思っているらしい。筋が通った考え方だ。

 これで、家族の風邪はきっと収束するだろう。やはり一人だけひかない訳にはいかない。



1997年11月 2日 日 晴      待ち合わせ

 連休の中日、昼間はずっと家の中にこもって、航平と遊んだり、パソコンの電源を入れたりしながら、ぼんやりと過ごした。家族揃って休息の日だった。自分のところが風邪になると急に風邪に関する情報が集まるようで、現在風邪をひいている人が誰で、治りそうな人が誰であるかが自然と分かる。

 すると自分の身の回りの人の随分と多くの人が風邪をひいているような気になって、なんとなく、風邪がはやっていると自分でも情報を流してしまう。風説の流布かもしれない。自分がとりこまれると全体が見えにくくなる。夜は家族それぞれシャワーを使っている。

 明日はチャコちゃんのかつての職場の同僚、友人たち何人かと公園でランチパーティになっている。チャコちゃんは夕方からやきぶたや習ったばかりの紅茶ケーキを作っている。

 駅で待ち合わせる予定だが、あいにく今は大学の学園祭中だから人が多い。改札口は構造上風が強いので待つには不適当だ。待ち合わせ場所を変えるように連絡しようかと相談していたが、大体時間どおりに来る人だから変更しなかった。

 待ち合わせに時間どおりに来ない人は大抵いるものだ。そんな人は待っても愛すべき人でついつい待っている。みんなが待つから、待たせる方も気にしないように見える。私は待たせることもあるが、貧乏症か、大変に罪悪感を感じてしまう。負い目を感じて、自分に自信がなくなる。正しい反応だ。

 かつてチャコちゃんと独身時代の交際の時、そう、13年間も付き合ったから、待ち合わせ回数も多かった。時間前に来ても、待ち合わせ場所には居ないようにしていた。時間前についても別の場所をぶらぶらしている。

 互いに待ち合わせ場所に、待ち合わせ時間ぴたりに会えた。待ち合わせにストレスなく安心して付き合えたから永い交際になったのかもしれない。



1997年11月 3日 月 晴      何月何日

 待ち合わせの時間にぴたりと全員が集まって、駒沢公園に出掛けた。木漏れ日の大きなテーブルに、クロスをかけて、持ち寄った食事を広げた。大人が五人と子供が二人で、草上の昼下がり、豊かな、団らんだった。

 家族水入らずもいいが、知人とのわずかな緊張感が話しの心地よさになる。前に会ったのが、それぞれ、九月と前年とだったから、その後の気になる事情の進展を聞いたり、現状を聞くうちに異なる人生の別の楽しみをみんなで共有する。

 二時ころまで食事をした後、公園を歩いて、うちでまたひとしきり話しをする。新婚の妻の立場の苦労話しも笑顔満面で話すばかりで、ここに居ない夫への愛情をあらためて聞くようだ。言葉って全体からかもし出るメッセージがあって、直接表現するメッセージよりも強く印象に残る。

 家のマックでゲーム「Tower」をひとしきり一緒に遊んで、帰るまぎわに子供が
「今度遊びに来る日は何月何日何曜日なの?」
とお母さんを聞く様子を見ると、自分も今日一日を楽しめたと感謝できる。



1997年11月 4日 火 晴      街の中に

 気づかないうちに紅葉も大分盛りを過ぎて落ち葉が重なり、木の間から見える空が透けて見える。暖かい日で、冬をこれから控えるにはまだ先にも見える。日差しは窓の中遠くまで一杯に差し込み、朝食をとるに日焼けしそうだ。

 駒沢大学は学園祭の後だからか、学生は少なくてあたりは連休明けでもひっそりとしている。この駒沢には80年から17年間住んだ。私自身では最も永い期間住み続けている場所だ。チャコちゃんとの本籍地もここに置かれて、これからもまだ住むだろう。

 駒沢は住み易いかと問われれば、それ程住み易くは感じない。国道246号線、環七通り、駒沢通り、目黒通り、東名自動車道、首都高速道が近くを走り、空気が汚れている。周囲は緑が多いが、騒音と人の多さが目立つ街だ。もっと住み易い場所がきっとどこかにあるような気がするが、なかなか分からない。

 政治家やタレント、経済人が住宅を建ち上げるによく近所が選ばれ、あちらにもこちらにもテレビで知る人の住宅が出来上がる。それで、良い場所だろうと推測されることがある。彼らにとっては良い場所なのかもしれない。テレビ局に行くに便利だったり、霞ヶ関に行くに便利だったり、羽田もさほど遠くない。住宅価格は彼らにはそれほど高くはないかもしれない。

 しかし、自分にとっての住み易さとは違う。自分が住み易いことが自分にとっては最良だ。今の自分は美しい自然や爽やかな空気、穏やかな近隣と安心できる商店が大切かもしれない。

 夢を描いてもそんな土地はどこにもない。理想だ。子供の頃転入する時に嫌な場所と思ったところが、離れる時は最良に変わっていた。駒沢は永く住んでもなかなか最良に感じない。今まで、近隣の人間関係が自分にとって希薄すぎてきたことが大きな原因かもしれない。航平と一緒に街の中にいつかは出てみたいと感じている。



1997年11月 5日 水 晴      気づかない疲れ

 航平の風邪は大分よくなっているが、まだ鼻水が出て、薬は飲んでいる。薬は苦くて飲まないかと思ってそのたびにアイスクリームに混ぜたが、そのまま飲ませても甘くて、おかわりするくらいよく飲むことが風邪が治る頃になって分かった。

 今日は碑文谷公園に友人と出掛けることになっていたが、風邪の具合もあって、近所の公園にチャコちゃんと二人で遊んで帰ってきた。風邪だからといって大人しくじっとしているわけではないから、少しは外の風にあたった方がよい。

 チャコちゃんも私も大体良くなっている。チャコちゃんは何となく違和感が体にあったようだが、夕食をとると元気になった。航平が風邪をひいただけだが、プールに行けないこと、医院に待ちながら通院すること、風呂に入れられないこと、食事を充分食べないこと、夜中に咳をして目を覚ますことが気が付かないうちに複合的にストレスになっている。自分では何でもないようなつもりでも疲れているには違いない。



1997年11月 6日 木 晴      伸び伸び

 チャコちゃんはお父さんと会うために渋谷に航平と一緒に出掛けてきた。東京都児童会館で昼食を一緒にとったらしい。地下一階にある自動車がチャコちゃんも面白かったようで、今度また私も一緒に行こうと話している。聞くばかりで様子がよくは分からないが、特別に気に入ったようだ。航平は30円拾ってきた。

 夕方、航平は耳鼻科に行ったが、もう大分良くなっているらしい。診察の時に医師が持つ器具を見て、耳の治療に関する器具を手にとるときは気持ちよくじっとしているが、のどの器具をとると泣きだすと、チャコちゃんは知恵がそれだけあるんだと話している。先生からも好かれているように感じているらしい。

 風呂にはまだ入らずにシャワーを使っている。以前は私がバスチェアに腰かけて航平を立たせて洗ったが、今日は航平が椅子に勝手に座っていて、私がひざまずいて洗ってる。最近は航平の王子様ぶりが段々と実体を伴っていて、私は不安になっている。チャコちゃんもお付きの者として横に控えている。伸び伸びと育っている。



1997年11月 7日 金 晴      マズローの欲求五段階説

 マズローの欲求五段階説が日本に紹介されてから「自己実現」なる言葉が一般的にあちらこちらで使用されるようになっている。若い人から年をとった人までが自己実現を目標に人生設計をにらみ、現実の自分を大切に毎日を努力している。

 自己実現された状況は幸せだが、欲求が下位にある社会的欲求や生理的欲求がかえりみられず偏見にあうことはないだろうか。社会的に高い地位につくこと、競争に勝つこと、財産を取得すること、他人から認められることが自己実現欲求より下位にあることから下位欲求を表だって表現することがダサイ、古いと、かえって社会から必要以上にさげすまされてはいないだろうか。

 確かに自己実現されている状態にある喜びは大きいだろうし、寝食を忘れて集中し、熱中する状態は一種幸せで陶酔された状況にあって、至福の時かもしれない。

 しかし、欲求は五段階にわたって繰り返し訪れるもので、食事だって愛情だって、競争に勝つことだって、お金を儲けることだって、各位の欲求が繰り返し訪れるからこそ、毎日を有意義にそれこそ、自己実現も得られるかもしれない。それを下位欲求を軽視して自己実現ばかりをやみくもに追ったところで鳥でない人間がやみくもに鳥を望むように、飛ぼうと努力するように、現実的ではない。

 欲求が階層的に五段階にあることは認めても、それぞれの段階にある欲求が自己に存在する実際を十分直視して、各位の欲求の充足と獲得とが人の幸福には必要だろう。



1997年11月 8日 土 晴      チューリップ

 夕方からプランターの土ならし。チューリップの球根を植えるのに、土を掘り起こすのが伸び伸びになっていた。もう期限ぎりぎりで来年はチューリップなしかなあと言われて、せっせとあちこちのプランターを整理した。

 都会の花作りでせせこましいベランダに土を出しては入れ替えて、プランターを持ち上げるのに腰がぶつかりそうになる。肥料の油かすがないと話しながらの土づくり。花が綺麗に咲くかどうかは結局は土の善し悪しが大きい。余り得意な仕事ではないが、チャコちゃんにおだてられては土をかき回す。触ると、遠い子供の頃の砂遊びを感じる。

 横で航平が一所懸命手伝おうとするがお願いだからやめて欲しい。遊びじゃないんだから。球根をプランターに三つ入れておしまい。一昨年はカラスに食べられてしまった。



1997年11月 9日 日 晴      撮影

 晴れた日曜日、年賀状に載せる写真を取りに出る。少し前に一眼レフのカメラを購入したが、全然使っていない。まだフィルム一本もとっていない。買ってから使いはじめるまで、しばらく時間がかかることがよくある。

 全然使わないことはないが、眺めている。そのカメラを購入したいと考えてから、購入するまでに一年も経っている。ようやく買ったカメラなのに買っても使いはじめない。普通なら喜んで使うと思うけれど。

 いきなり使うと飽きてしまいそうな気がする?そんな気がします。買ったから、どんどん使うとしばらくして飽きて使わなくなりそうな気が自分ではする。靴や洋服もそういうところがあって、手に入れてからしばらく使わない。

 すぐに使いはじめると今までのカメラが可哀想な気がする。そんな気もします。50ミリの映りが好きでたまらなかったのに、手に入れたから、いきなりズーム、接写なんて、自分の過去を裏切るような気がする。

 手に入れてすぐに使うと、使うことが義務になりそう。今は使える権利を実感として楽しんでいる?使う喜びはしばらく先にしたいのかもしれない。

 三脚を持って、すすきの生い茂る野原で使った感じは上々で、気持ちがいいシャッター音。今年の年賀状はどんなかなあ。撮る人もモデルも変わらないから写っていればいいよと6枚しか撮りませんでした。



1997年11月10日 火 晴      トランプ神経衰弱

 チャコちゃんの妹のヒロコさん家族が訪問。みんなで近くの公園で遊んできたらしい。少しだけ子供と一緒にキャッチボールをしたが、野球チームに入っているだけあってきちんとした投げ方と基本が出来ていて、二年生には見えない程上手だ。自分は子供の頃よく野球を楽しんだが、大人とキャッチボールが出来ること程楽しいことはなかった。

 子供時代に大人が一緒に遊びを手伝ってくれる経験はなかった。今の子供は大人が遊びに付き合ってくれて幸せな筈だが、とても幸せな様子にいつも見えると言う訳ではない。

 トランプで神経衰弱をしたが、子供の頃の思い出は、何て大人は記憶が悪いのだろうと思っていた。何でこんな簡単なことが分からないのだろう。今そこにあるものがどうして分からないのだろうと思っていた。

 子供の頃、神経衰弱は一人勝ちで怖いものなしだった。こんな簡単なことも分からないでよく仕事なんて出来る。自分が大人になれば、ひとかどの人物になるに違いないと思った。

 ゲームをはじめると不思議な程に分からない。自分が覚えやすいように自分の手前を開けた。真ん前の二枚のカードが何だったか、閉めた途端に忘れている。

 自分は大人だし、大人は子供に勝つ筈だ。さっぱり分からない。しかし、うまい具合にまだ相手は8才と5才だ。憎らしい程には強くはない。頑張れば勝てるかもしれない。

 覚えようとする程だめだ。こんな時にはリラックスして無の境地だ。無から有は出ない。結局ヒロコさんが優勝私は三番だったが、大人がみじめなのは分かった。そう言えば、最近、練習が足りないかもしれない。



1997年11月11日 火 晴      遁走

 三菱電機など、大手企業役員が逮捕されている。社会的地位の高い人々なのにどうしてそんなとテレビで市民が話している。社会的地位の高い人と市囲の人々とでモラル高さに違いはあるのだろうか。

 街中に居る人からモラルを教わることはよくあって年配の人からもモラルを注意されながら育ってきている。しかし、自分自身のことだが、若い頃の方が精神的なモラルはずっと高かったような気がする。年を経るに従ってモラルが欠けた分取り繕いが上手に立ち回りが上手になってしまったかもしれない。

 若い時は苦しくもモラルを守ったが、最近は苦しいとモラルより自分のありのままを大切にしてしまう。話しは繋がらないが、若かった頃の過ちを、ふと思い出して。


 17才、高校三年生のちょうど今の時期に受験勉強をしている最中、夜中に小説を読んでいた。有吉佐和子の「私は忘れない」。一人の仕事にくたびれた体を休めに鹿児島の西南30キロにある黒島にふっと出掛けて、新鮮な気持ちを得て東京に戻るストーリーだった。

 大学受験が近いのにうんざりしていた自分はこの仕事に疲れた体をいやした主人公のように自分の体を休めようとふっと朝方羽田に出掛けてしまった。話せばダメだと言われるに違いないので、夜明け前に出た。おまけに何故かストーブも点けっぱなしで、開いていた本もそのままだった。

 明け方5時前に外に出て、6時過ぎには羽田に着いて、9時には鹿児島に着いた。バック一つには下着が入っている位だった。はじめて乗る飛行機だった。すぐに港に行くと黒島行きの船は今日出たばかりで次ぎは一週間先だと言う。仕方なくホテルを探しに出たがちょうど身障者パラリンピックが開催されて、止まるホテルは見つからなかった。

 再び港に戻り、ここから出る先の島で一番小さい島はどこかと聞くと「与論かな」と言うので、そのまま与論経由沖縄行きのフェリーに乗った。24時間ほどで与論に着くと沖合いに停船し、はしけが船についた。はしけに乗り込んで島についた。港がない島だった。降りると何人か、人買いのように民宿の主人が出て、言われるまま、自動車に載せられた。そこで待っててと言われて主人はまた客を呼びに出たが、結局船で得た客は私だけだった。

 何もない島で見渡す限りがさとうきびだった。民宿は白壁が美しく海は透けるように青くて珊瑚礁の中に魚がいくらでも泳いでいた。

 主人は海水着持って来なかったんだねと話したが、自分はオーバーコートを着て出ていた。水着を借りて泳いだ。そこに止まっていた客は研究のために二カ月も居る京大出身の若者と、失業で、半年は遊んで暮らすという男性の二人だった。

 青い空と光る大地は小説の黒島とさして変わらなかった。島一番の美しい女性がいるからと客の二人の男性と出掛けた。

 家のことはひとかけらも思い出さなかった。そのあと沖縄に渡った。返還直後でドルがまだ使用され、車は右側を走行していた。ステーキが米国のように手軽な食事だった。

 10日間たったころ、21日が誕生日だが、そろそろ誕生日だなと思いつつ、何の気なしに帰宅した。家に着く少し前に心配させたかなあとふっと感じた。でも自分は清々としたし、受験勉強もがんばれるかなとも思った。

 帰宅すると、大変な騒ぎになっていた。捜索願いから、逮捕者書類、不明死体書類を調べたらしい。ある人は、好きな女性ができて一緒に出たに違いないと考えたらしい。私がいやちょっと遊びに行きたくて出たと話しても信じる人は居なかった。

 最近になって「遁走」という術語を見つけて、自分の行為をあてた言葉だと知った。毎日泣いたと言う母が、その後、若くに亡くなったのはこの時のストレスもあるかなと感じる。もう「遁走」はしない。



1997年11月12日 水 晴      無線機

 夕方秋葉原に出ると、ソフマップのとなりにラオックスのモバイル館がオープンしていた。特別な品物が置いてある訳ではないが、デジカメ、ビデオ、携帯情報機器が美しく陳列されていた。

 パソコンを移動中に持ちあるいて、オフィスとのやりとりを瞬時にこなし、出先で得た貴重なデータを元に戦略を練り、仕事をこなす。携帯ツールはそんな要望に支えられて発展してきたのだろうか。販売戦略だろうか。

 自分自身も学生時代の夢は電話とコンピューターを携帯して世界を飛んでいくようなビジネスマンになりたかった。東芝ダイナブックのコマーシャルのように。勿論いまからでも遅くはないだろうが、現実はほとんどコンピューターの前から動かない生活になっている。動くのは近所へのお遣い、航平と遊ぶこと、食事や会話の時くらいになっている。学生の時には自分をつかみきれていなかった。

 中学の頃からアマチュア無線を楽しんだことがあって、自動車にも無線機を備えてよく旅行に出た。今もここにはすぐに使える機械が置かれている。無線機が一つあるだけで、いつでもどこでも沢山の人と繋がっている感じが携帯情報機器の良いところだ。昔のお守りのように、機器の後ろには沢山の守護者が支えてくれる安心感があったかもしれない。

 無線機を通して旅行先で道行く人から招待されたり、地元の美味しいレストランを紹介して貰ったり、携帯して、得たことや安心感は計り知れない。

 携帯ツールが良いのは自分が望まない時は電源を入れなければいつでも外部と遮断されることだ。自分の存在は安定しているような気持ちになれる。無線機の目的は機械いじりにも見えるが、実際には人との出会いや接触を求める気持ちが大きかった。



1997年11月13日 木 雨後曇    遊び

 西から降り続いていた雨は朝方ベランダを少し濡らして昼前には上がっていた。チャコちゃんが近くの園芸高校の庭で取った、茶碗蒸しに入れるからと言って干してあった二個の銀杏にはしっとりと雨がかかっていた。トレイから出してストーブの前で乾かしながら、雨も久しぶりだと思う。

 航平は永く続いた咳と中耳炎もようやく治まってきているようで、耳鼻科医に行っても、もう大体いいと言われたらしい。医師と仲良くなって治療の勘所も本人は分かるらしい。随分と永く毎日通った。風呂にはもう入れて、プールはまだ休むかもしれない。医院に連れていくチャコちゃんの労力が大変だった。

 病気をすると賢さが出るようで、階段を降りる、大きく笑う、幾つかの言葉、新しい仕草を覚えた。子供は大人と違って一日中学び、成長する。遊びながら学んでいる。子供の仕事は遊ぶことだ。遊びは複合的な体験や経験が蓄積されている。

 電卓の蓋を開け閉めしながら、慣性モーメントやベクトル、数字や反射、落下加速度、投げた軌跡の放物線、ひきずりながらの摩擦係数、物体疲労、磨耗、固体強度を認識する。休息中は体力を蓄えて、学習、成長し続けている。

 遊びの最中は集中している。楽しんでいる姿は精神が澄んでいる。遊びから短時間に学ぶ量は計りしれない。遊びと自然と健康は子供にとって大切だ。



1997年11月14日 金 雨      株式市場

 雨が降り続いている。ニュースを見ると東京株式市場が最安値を更新したと報じている。香港の株式下落に端を発してロンドン、ニューヨークと共に日本株も売却され続けている。三洋証券の倒産から金融不安がささやかれ、銀行株や業績不安のゼネコン株など軒並み最安値を更新している。

 株式市場は資本主義経済の根幹をなす金融市場だが市場が成り立たなくなることは世界経済が成り立たないことを意味する。よく株式については株式投機による失敗からの偏見をもって語られることがあるが個々人の財産については、現金、預金、債権、不動産をバランスよく取得することが望ましい姿だ。どこか一方に偏ることは精神上も不安定さをまぬがれない。

 株式とはいうが、本質的には八百屋で売られる大根に似たカブと大した差はない。バブル期前には100円だったものが一気に380円になり、あっと言うまに130円になってしまった。やっとちょこちょこと上がっていって200円を越えていたりしていたが、ここ一二週間の内に150円になったから大変なことになったと新聞の一面で報じている。10円になったわけでもないから大したことはない。更にこの先130円くらいまで下げたとしても市場としてなんら不思議な動きには見えない。商品市場が危険なように八百屋のカブの方が値動きは激しい。

 八百屋のカブや電気屋のパソコンと違うのは上がると買いたくなるし、下がると買いたい人が居なくなることだ。新聞やテレビが不安感を書き立てるからだ。大体金融不安が起きて市場が破綻すれば株式を持たずとも未曾有の混乱に陥るはずだ。今安いからさあ買いに行こうと言う人が居れば、その人は相場師よりも株式投資に向いている。総会屋だってなかなか株では儲からないから、ああして企業に金をせびりに行く。150円だ200円だという値動きしている対象でそうそう儲けることなど誰にとっても容易ではない。ましてや信用取引で人の金を使って短期に儲けようなどと考えてもそれは無理だ。

 キリストが生まれてこの方、インフレはいつの時代にもあって、現金は必ず価値を減少させてきた。だから一部は物に変えておく。カブは腐るので株なら楽だ。八百屋のカブが500円、1000円になってしまえば、自分の株も同様にスライドして500円くらいにはなるだろうが、預金なら100円は一年でせいぜい105円くらいまでにしかならない。安い時に自分の財産の一部を債権に変化させて、長期に保有する分には他の物と共に物価スライドしていくから安心できるというだけの話しだ。

 だから今のように安いと言われる時に購入しておくとすぐとは言わないが恐らく何年か先には自分の資産が保全される筈だ。金融不安が言われるが例えば住友信託銀行株を今日の値段1000株690000円でこのホームページ上で買うので、(実際には買わないが)何年か先に私の話すことが真実かどうか自分も検証したい。八百屋のカブは5個で150円くらいだろう。

 もっと堅実な人なら、特別に儲かる可能性は更に少ないが、電力株のような持っているだけで銀行預金よりも高利回りの配当を得られる上にこうして値段が下がった局面でもほとんど値を下げなかった株式もある。今のように、下がった局面には格段に下がった株式、例えば銀行株と替えれば、更に危険は回避される安全な株式だ。資本経済と貨幣経済の根幹については決して偏見で見ることなく、冷静な目で尊重した方がよいと考えている。ちなみに慶應大学理工学部のキャンパスは藤原銀二郎が王子製紙株式で一獲千金のごとく得た財産で創設された。



1997年11月15日 土 曇      睡眠

 昨夜、航平に添い寝していたチャコちゃんが夜起きてきた。会話しているうちに夜中になった。チャコちゃんは今朝七時に起きて普段どおりに過ごしたが、私は寝坊して一時に目が覚めた。

 よく睡眠が毎日四、五時間でも大丈夫という人もいて、大勢集まる所ではひときわ目立ってそう話す人もいた。自分は永い時間寝ないと駄目だが、話すことは恥ずかしかった。だらしないと感じていた。

 特別五時間くらいの睡眠になりたいとは思わないが、せめて規則正しく八時間の毎日を送れたらいいと思ったし今もそう思う。永いときは12時間も寝るなんて、赤ん坊と同じだ。航平もそんなには寝ない。人が私のそれを指摘するときには軽蔑が含まれている。

 惰眠をむさぼると仕事もしたい気持ちにならないし、ぼうっとしていられる。気分は心地よい。しいて言えば夜眠れないのが苦しいくらいだ。そんな惰眠の翌日が今日だった。

 午前中、公園からかえった航平は昼寝をして、チャコちゃんはアイロンをかけ、自分はコーヒーを飲んだりしている。チャコちゃんは買ってきたパンジーをチューリップの球根をおさめたプランターに植えている。

 航平が目覚めてから三人で、トレーと牛乳パックを山ほど抱えてスーパーに持っていきながら、駒沢公園を歩いた。公園はもうすっかり陽が落ちていた。チャコちゃんは昼なら紅葉がここは綺麗なのよと説明しながら暗闇を指している。

 都立大学のキャンパス跡地は清掃工場が出来るのか、工事が始まっている。反対運動は最近下火になっている。

 すっかりと夜になって自転車の明かりをともして三人で公園の橋から道路を見ると自動車のライトが美しい。体育館ではチアリーダー全国大会が開かれ、闇の中ではまだスリーオンスリーを楽しんでいる。

 公園の脇には新しくオープンしたからとカフェ、インド料理の店をチャコちゃんは案内してくれる。
「公園で遊んだ後、他の人はこんなカフェで昼食をとる人が多いのよ」
チャコちゃんは話す。その言葉の後には「でもうちに帰ってくるのよ」という言葉と愛情が聞こえている。パリのサンジェルマンやニューヨークのソーホーにいるような、外にテラスが突き出たカフェが出来ている。

 夕食はその先の鮨屋「魚貞」に立ち寄った。独身自分から永く親しんでいる。いつもの店で外食。いつも戴き続けている本日の日替わり定食。良心的で愛想が良くて、昔から親しまれている。私はずうっと「うおさだ」と呼んでいたが、チャコちゃんは「電話でうおていって答えていたよ。」と。

 買い物をし、耳鼻科医に寄り、診察風景を会計窓口から覗くとチャコちゃんがいつも話す通り、鼻水を採られる時だけ確かに航平は泣いている。

 何にもなかった一日が終わる。何にもないけれど、何となく気持ちの良い日。やっぱり永く眠るのもいい。



1997年11月16日 日 曇後雨    さい配

 サッカーワールドカップ出場が決まった試合を観戦。岡田監督のさい配が万全で観戦して心地良い。おめでとう。



1997年11月17日 月 雨後曇    銀行倒産

 昨日はサッカーのワールドカップの予選試合が夜遅くまで行われていて夜更かしをした。日本チームがはじめてワールドカップ試合に出場できるらしい。嬉しいことでこれからもまた一層活躍を続けて欲しい。

 北海道拓殖銀行、北海道随一の地域銀行の経営が破綻した。国の首脳が揃って同じ言葉で冷静を訴えるが、恐らく更に銀行は倒産していくだろうと私自身は想像している。

 私の住む地域駒沢にはよくチャコちゃんと一緒に夕方買い物に出掛けるが、歩いて行く商圏に八百屋は三軒、肉屋は二軒、魚屋も二軒、文具店は三軒、スーパーは二店ある。もっと足を伸ばせばまだあるが、大体よく出掛けるのはそんなところだ。住宅中心の街で、丸の内や青山のようなビジネス中心の街ではない。住む人の街だ。そんな街に銀行三店舗、信金三店舗、二つの郵便局に更に無人の銀行営業所が二店舗軒を連ねる。

 銀行の主要業務の一つに為替がある。為替制度は銀行があるからこそ得られる重要なサービスだ。私は自分の街を旅行などでしばらく長期に離れるときに、支払い債務が生じる場合に備えて、(新聞料金の支払いや、水道屋への支払いなどつまらない少額の日常の支払いだ)近くの東京三菱銀行に出掛けて、海外からも手軽に送金したいので、小切手を切りたいと、当座預金の開設を依頼した。

 するとあっさりと拒絶された。理由は連絡が毎日即時に電話で付かない場合(旅先など)小切手を切ることは出来ないのが理由だそうだ。三菱銀行駒沢大学支店の行員が話すのは、海外から送金する場合には親戚に頼んで支払って貰うのが普通の市民の方法だと話した。更に行員は東京三菱銀行の小切手は高いんですと話した。つまり先日付小切手を市中で売却した場合、他の銀行よりも市中相場が高いと行員は説明した。

 私には支払いを気軽に依頼できる親戚はいない。為替が事実上少額では出来ないのが現在の邦銀の実状だった。結局私に為替を可能にする銀行は日本には見つからなかった。業務を行ったのは米国シティバンクだった。一定の金額の預金を一定期間預けることで誰にも当座預金を開設するしくみで、フェアで分かり易かった。

 銀行が預金業務をするばかりで、市民に、為替、融資業務をしないなら、この街から出ていって欲しい。この小さい街にそれほど多くの銀行はいらない。



1997年11月18日 火 曇      回線

 しばらく続いていた航平の咳はやっと治まって、午前中に髪を切りに近くの美容院に行った後プールに出掛けた。しばらくぶりのプールだったが楽しんでこられたようだ。戻ってからも元気で咳も鼻水も止まって、いつもの万全な体調に戻った。

 コンピューターの進歩は著しいが、このところ自分ではコンピューターに対する投資を怠っている。結局つまるところ回線がボトルネックになっているからだ。現状では28Kのモデムを使用しているが、他に投資したとしても回線スピードが進まない限り改善には帰さない。

 現在三回線の電話を使用してすべてがアナログ回線だから、INDN回線に変更した場合に64Kのスピードが期待出来る。また、二回線あるいは一回線に減少することで基本料金の節約が寄与できる。

 しかし、ISDNは一回線で二回線分使用できるとは言うものの、あくまで二回線よりは不自由だ。ファックス送信テストが出来ない。話し中であっても、設定によっては話し中にならない。呼び出して居ない場合不在を意味する。来年当初の番号通知方式の採用でTAの機器進歩が著しい予想がある。三回線の内少なくとも一回線は電話番号を変更しなければならない。シュミレートすると総支払額は高くなる。倍の速度は体感にすると二乗分の一にしかならない。

 この地域では東急ケーブルテレビが既に入っていて、現在インターネット事業への参入が計画されている。予定では昨年中に開始される予定だったが、のびのびになって未だに事業計画の発表がない。モデムの規格統一がメーカー間の思惑と、行政の仲介によって遅れているらしい。

 開業発表は昨年末から今年3月末、7月末から今月中旬にと延び続けている。計画では回線スピードは下り1.5Mバイト、料金は24時間常時接続で月3000円が当初見込みだ。現在NTTへの支払いは月々これの数倍になるから、一刻も早くケーブルテレビの事業参入を期待している。

 1.5Mバイトは最低限の世界標準だ。電話もテレビも音楽もインターネット利用がある程度まで可能になる。

 回線の敷設はコンピューターにとってもっとも渇望する資産だ。不況で人が余る、職場がなくなるというが私たちの身の回りには幾らでも、やって欲しい仕事はある。自分の所だけ回線スピードが上がっても決して充分な意味をもたらさないからだ。



1997年11月20日 木 曇時々雨   リース作り

 そろそろクリスマスシーズンでチャコちゃんは友人と一緒にクリスマスのリースを作っていた。ストーブもついて外は雨がぱらぱらとふってリース作りの横で航平は遊んでいる。雨の日に、家で楽しむのにリースは最適だ。

 チャコちゃんはこの所、外に出るたびにリースに付ける花材を拾って集めている。私にはごみに見える古ぼけた、しなびた「がく」がチャコちゃんにとっては宝石のように見えるらしくて、喜んでポケットにしまっている。

 台になる「つる」も新しい綺麗なものより、古いのが好きで、汚なくも見える。何やら不可解な品物を集めてはボンドで付け、並べるうち、しばらくすると豹変したように美しい品物に仕上がる。今年も出来るだろうと楽しみに眺めている。

 明日21日は家族の都合により、日記と接続をお休みします。



1997年11月21日 金        正司誕生日





1997年11月22日 土 雨      経営が破綻

 山一証券の経営が破綻した。証券トップの一角が崩れた。つい数年前なら予想もしなかったできごとだ。

 年功序列、終身雇用、子飼いの日本的経営手法において、就社先の破綻は親との離別にも近い。突然のできごとで驚くばかりだ。年功序列と終身雇用は永年、就社先が存続する限り価値があるのであって、一旦、崩れる場合に、転職先がない不自由を逆の側面に有している。中途入社を認める企業は大企業には少ない。

 私自身は勤務先を退職する時に大企業への転職先はもうないだろうと考えていた。実際にはバブル期に大企業が人員不足からこぞって中途入社を求めた時期もあったから、全然無かった訳ではないが、ほとんど大企業への就職はない。自分がどれほど才能を持とうと世に言う一流企業への就職はもうほとんど無理だと思っている。淋しいと言えば、淋しいことで、退職するときには最も不安だった。暗闇の中に放り出されるような気持ちだった。

 退職してみると、就職先が一流企業にないのは事実だ。そんな時にはげましてくれる言葉は福沢諭吉の三助有用論だった。「慶應大学を卒業したらむしろ銀行員になるよりは風呂屋の三助になった方がまだ良し。」という言葉で、堅実であってもつまらない仕事をつまらないまま続けるよりは風呂屋の三助になる方が、実業をなす方が有意義だという講話だった。

 銀行業がつまらないかどうかは別にして、辞めて分かるのは、過去を後悔することはなかったことだ。自分を守ると感じていた年功序列、終身雇用は離れてみれば、つまらない奴隷制度に見える。大企業の年収は高いが、低い収入も楽しめる。高年収を幾ら得ても、離れてみる大企業は羨ましくはならなかった。

 淋しく、自分が不幸なのは大半が優良企業に勤める会合では、自分が少数派であって、意見や話しがかみ合わないことだ。かみ合わないというよりは、世間知らずに見えてしまう。しばらく話すうちに解消するが、多数派としての思想の偏り、偏見に、あきれてしまう。社内で横暴な目にあっているのかなと想像する。

 社会は極めて安定したルールに従っている。私に対して
「何様だと思っている?」
と怒鳴った人(父)がいたが、社会はどんなに身分がなくとも、どんなに小さな子供にも、どんなに障碍があっても、性別がどちらであっても、思い通りに行くことと行かないこととが厳としてある。身分関係で無理もまかり通る、終身、身分社会とは違う。

 終身雇用から外れるとはるかに理屈が通る心地よい社会が広がっている。社会はようこそと受け入れる。どうぞ、不遇の環境にいる方があれば、別の場所で社会のために働きませんか。人が望む場所には必ず必要な報酬はある。

 不要な企業は幾ら無くなっても構わないが、企業に働く人は、優しい家族と共に過ごす、家計を支える大黒柱だ。転職に関する充分な補償は社会として必ず用意しなければならない。企業には冷たく、人にはやさしくあって欲しい。



1997年11月23日 日 晴      置いてきぼり

 晴れた日曜日だが、航平が昨夜から熱を出して咳が続いている。小児科医で貰った咳止め薬と風邪薬を飲ませている。鼻水が止まらないので、家族三人揃って家の中で過ごしていた。

 夜中に咳が出るのでチャコちゃんは何度となく目覚めて睡眠不足になっている。ちょっとしたことでも涙が溜まってくる。感情的になってしまう。幸い自分は睡眠が十二分にとれているので普段以上に機嫌がいい。

 チャコちゃんと私とは寝室が別になっている。かつては親子三人が並んで寝るように想像したが、一家全員が睡眠不足で共倒れになるよりはむしろ別に寝るのが良いように思った。

 風邪で熱があると言っても運動量は普段と変わらず活発で、決して休んでいない。食事もはかどるし顔色もいい。心配はないようだが、咳の音を聞くのがたまらない。

 自分は子供の頃喘息だったので、よく咳をしていた。咳をすると大人が大丈夫?と優しく声をかけるのだが、心配してもらうのが嫌だった。教室でも家庭でも、お手洗いや誰も居ない部屋に行って思いきり咳をした。咳は苦しくはない。咳が出る前が苦しいから咳をする。咳は苦しさを解消させる行為で、いくら咳こんでいても苦しくはない。

 逆の立場で子供の咳を見ると、結局自分は子供の咳を勿論心配しているには違いないが、うるさいと感じているのかもしれない。病気は可哀想な状態であると共に、自分が置きぼりにされそうな漠然とした不安感を生ずるものだ。豊かなら、置いてきぼりになどは誰もしない。



1997年11月24日 月 晴      三連休

 連休最後の晴れた一日だったが、航平の風邪は具合が悪くて室内で家族は一日を過ごした。他の人たちは外で楽しく過ごしているだろうかと想像すると少し残念な気持ちにもなる。

 インターネットで得る情報は断片的で便りない集積のようで、情報を総合して想像していく場面が多い。人の有りようを想像する時もそうだが、他の考え、他の思想などをあまりに想像しすぎれば、自分を見失ってしまう時がある。ネット病のようにネットに依存した状況に陥る恐れは、不完全な情報に振り回されることが原因だ。

 あくまで、自分を保つためには自分がしたいことを、自分の楽しみのためにした方がいい。当たり前のことをあらためて書くのは、それが難しいことであり、面白いことでもあることと、人の社会に居て一筋縄では行かない状況に幾らでも出くわすからだ。

 合理性と非合理性の合間を縫って自分の心地をキャッチボールするのは、日常、食事を戴いては、お腹を空かす行動を繰り返すのと同じで、互いを行ったり来たりする内にも何らか、自分が自分でありたい。

 やはり、休日は外に出る方がいい。



1997年11月25日 火 晴      山一証券の廃業

 山一証券が廃業を宣告した。資産は債務を上回るので顧客の預かり資産は保全されるが、回収確保のために日銀が無担保特別融資を実行するとニュースは報告している。東京株式市場は全面安の展開になっている。

 山一証券保有の株式が資産回収のために売却される見通しがあるので、当面株式市況は供給が多く株価は更に下げるだろう。金融システム維持のために政府も市民も様子を見守っているのが現在の段階だ。

 事態は漠然と不安感を煽っているようにも見えるが、極めて安定した社会のシステムが働いた状態であって、なんら特別な事態ではない。当然あるべき状態であって、決して目をそむけてはならない。人は命を落とすように、企業もいつか使命を終える。それではじめて社会が存続するしくみの中に私たちは生きている。

 社員の方々は家族もある、毎日を過ごす暖かい人々だ。転業に対して、万全の用意を社会は必要としている。

 社会に対して、会社の倒産、廃業は無益ではない。社会は証券会社の数と規模について減少を求めた。社会は少ない人数と少ない店舗、少ない資材で証券システムを維持する方策を選んだ。山一以外で証券市場は維持できる能力を有すると市場は見た。

 山一の顧客が流れ、他の証券会社は新たな顧客を得るだろう。より高い収益を得るだろう。サービスの高い会社はさらに顧客が集まるだろう。証券会社の過酷なノルマは減少するだろう。効率悪く悪評高い営業は減るだろう。嫌な営業を上司から指図されることも減るだろう。

 無理に指導されて、住友銀行の隣りに平和相銀が看板を替えて同じ住友が並ぶよりも、一等地に山一と野村が並ぶよりも、空いた一等地には、私たちにとって必要な店舗が出店するだろう。ビル賃貸料は、より納得が行く価格になるだろう。無理に他の証券会社が買収するよりは廃業がよい。

 7500人の人々は新たに、より優良なサービスを提供する必要とする職務についてくれるに違いない。新たなサービスを優秀な人々によって、私たちは享受できる。よりサービスを必要とする場所がより豊かな能力をもった人々の力をかりることができる。

 社会の当然の仕組みを、仕組みとして豊かに機能させている瞬間に立ち会っている。大切なことは働く社員が安定してスムースに職場を替えることができる社会だ。激変する状況だけに不安が多いが何としても変化を成功させてほしい。産みの苦しみだ。



1997年11月26日 水 雨      誕生日

 チャコちゃんの誕生日。射手座。水着、プレゼント(金曜日予定)。外食後家族、過ごす。レストランで従業員10人からハッピィバースディの歌をプレゼントされる。インターネット休み。航平風邪。



1997年11月27日 木 晴      別の日に

 11月のこの時期チャコちゃんと私の誕生日が過ぎると歳末の声を聞く。チャコちゃんと私がはじめて出会ったのは私が27才、チャコちゃんが22才の時(はじめてのデートの日の写真)だった。その後、ちょうど同じ時期の誕生日に二人で誕生日のプレゼントを交換するのが常だった。

 チャコちゃんと私は13年間交際して結婚したが、その間何回も別れてしまいそうになった。それが決まってこの時期だった。今は勿論そんな不安はないが、かつてはこの時期になると仲が悪くなった。

 落ち葉が散り、空気が冷え込み、年賀状の販売が始まり、何かと気ぜわしい気持ちになる。今年も終わってしまう。来年もこのままだろうかと互いが思い悩んだ。自分の体調はいつもきまって秋に悪くなった。互いの誕生日を祝うには、無性に心が重かった。

 祝いは心が純真で真実に好きで、はじめて気持ちが伝わる。心にかげりがあれば祝いは返って苦しかった。あらかじめそうならないようにと話し合うこともあった。

 昨年までは一緒に同じ日に誕生日を祝っていた。今年はチャコちゃんの発案でそれぞれの誕生の日にきちんと祝うことにした。チャコちゃんに言わせると一回分損した気持ちになるらしい。

 ホスト役とホステス役がきちんとする。ケーキは立て続けに二回戴く。してみると、人を招いて祝って貰うとすれば、不都合だろうが、家族水入らずなら、別々にして、倍以上に楽しい。盛り上がる気持ちがひとしおだった。



1997年11月28日 金 曇      水着

 午前中、家族揃ってチャコちゃんの誕生日祝いの約束だった水着を買いに出掛けた。最近の水着はかつての物と比べると素材に暖かみがある他、デザインは一般的なものが主流だった。

 今の時期は室内プール用が中心で、競泳用の他も、幸いに、奇抜なものは少なくシンプルな品揃えだった。白い水着も出ている他に肌色の花柄の素材は流行だった。プールでは、何も着ていないように見えるそうだ。

 青い縞柄を幾つか見て、試着を薦められて、実際に着ているのを私も見ると、良く似合っていた。販売員は今は一番出ている品物だと話した。

 チャコちゃんに薦められて私も購入した。試着すると素材が伸びやかな競泳用のものが気に入った。チャコちゃんは見せてと試着室のドアの向こうで言うが、下着の上に付けた水着は恥ずかしくて見せなかった。

 今でこそ水着は試着するし、試着用に水着もプロテクトされているが、かつてチャコちゃんと一緒に水着を買いに行ったときにはまだ一般的ではなかった。独身のチャコちゃんに私が習慣だからと話して試着させた。

 至って真面目に私が好きな水着を薦めて、薦められるままにチャコちゃんが購入した。後から聞くと、チャコちゃんは自分が保てなかったらしい。良くプールに行って二人で泳いだ。私は毎週泳いだし、チャコちゃんは毎月泳いだ。今はチャコちゃんが航平と泳いでいる。

 昼食をとりながら、回りを見渡すと客は四、五十人程居たが、私以外に
「男性は居ないよ。」
とチャコちゃんが話す。

 言われて見渡すと年配の女性ばかりが談笑している。赤ん坊は航平一人で、バギーで休んでいる。寝入った航平を横にして、少しばかりおしゃれをしたチャコちゃんと私との久しぶりのデートだった。

 遠くに玉川の森が見えて、電車が流れている。何でもなかった、かつては、会えば当然してきた二人の食事も、航平が横に寝ているのが妙に不思議だった。



1997年11月29日 土 雨      丹念

 一日中、冷たい雨が降り続いている。外に一歩も出ない土曜日。夜、映画サウンドオブミュージックを見るともなく見入る。美しい音色と暖かな言葉の連続。一日航平は私の元には寄りつかなかった。

 目も合わそうとせずにチャコちゃんと食事をしたり遊んだりしていたのに、映画が始まるとちょこんと私の膝の上に落ち着いた。私が飲んでいるコーラに入る氷が一つの目当てだったのかも知れない。

 航平は自由奔放に遊び回るが必ず愛情をチャコちゃんと私にも与えている。大抵は憎たらしいことばかりの連続なのにほんの一瞬で心をかっちりと掴まえてしまう。航平はお腹が空いているときには私の所には決して寄ってこない。

 チャコちゃんの回りをうるさくつきまとう。食事はチャコちゃんから与えられることを勿論知っている。チャコちゃんは食事作りの時は忙しいし、火を使う回りで航平が動き回るのが危険だから、向こうに行ってと航平に言うが、聞き入れない。

 私に航平を連れていって遊んでやって欲しいと言うが、私が航平を引き離すのは試練だ。あたかも病弱の母の元から娘を人買いが連れ去るようで、航平は決してチャコちゃんの元から離れようとはしない。

 やっと引き離して遊んでいても直ぐにチャコちゃんの元にすがりに行く。チャコちゃんは最近食事作りが大変だと漏らしている。自分で作って食べる食事は美味しくないらしい。私がそれなら作ろうかと言うときもあるが、それでも心地よくないらしくて、やはり大変そうに作っている。

 チャコちゃんは私と航平の為に用事をするのに、他の誰もがチャコちゃんの為に動いていない状態は、逆の立場になったら私は絶えられないだろう。一方は尽くすだけ、一方は尽くされるだけの関係になんて、尽くされる方はいいかもしれないが、尽くすだけの人生なんて私もチャコちゃんも望まないだろう。尽くすだけの状態に自分がいるのだとチャコちゃんは感じたのだろうか。

 航平は今尽くされるだけの存在だけれど、どこかのわずかな時間でたっぷりと私達に尽くしてくれる。私が映画を眺めているほんの十分程のまとわりつきながらの笑顔で充分に明日も愛そうという気持ちを与えてくれる。

 今日は冷たい雨で、その十分も私はチャコちゃんに与えなかったのかもしれない。愛情は花の水やりのように一時では不十分で、毎日丹念にしないと直ぐにチャコちゃんから見破られてしまう。



1997年11月30日 日 曇      歩かない街

 家族で港北ニュータウンに出た。年賀状の写真を撮るのが口実だが、昨日も家に閉じこもりきりで、煮詰まってしまうので外気を吸いこむだけでも良い。結局空模様があやしくなったのと、早々に航平がどろんこにつまづいて洋服が泥だらけになったのと、チャコちゃんが寝不足で腫れぼったい顔をしているので、写真は撮らなかった。

 三人揃っての写真は撮れないかもしれない。昨年は撮って貰うにも航平は大人しく抱かれていたが、今年は抱いても暴れるばかりで、人にも頼みずらい。チャコちゃんに言わせると仕事じゃないのだから、楽しんで撮れれば良いとは言うが、どうやれば楽しめるかが考えても分からない。

 しばらく野原を歩いたり、周辺を見たりするが、ニュータウンというのは何とも不思議な街だ。美しさと寂寥とが入り交じっている。人が造成し、人が良かれと信じて作ったのだが、どこかに、寂しさと希望とが同時にただよう。
「このニュータウンに住んでいる人ってどんな人だろうね。」
とチャコちゃんは私に尋ねるが、私だってそんなことは分からない。
「きっと東京に勤める人が多いのではないかな。」
と話してもみる。こんな清々とした環境に住んで、歩いて行ける近所が勤め先だったらどんなにか幸せだろうが、東京までは少し距離がある。

 不思議なのは人が歩いていないことだ。幾ら行っても、立派な住宅が立ち並ぶが美しく整備された歩道を歩く人はほとんど居ない。自動車だけが走っていく。人が歩かない街に人が住んでいて、その街があまりにも綺麗だ。駅にも人はほとんど居ないし、バスターミナルにも人が居ない。タクシー乗り場にも人が居ない。

 レストランも大手の郊外店があるだけで、商店も大店舗があるだけで、無機質だ。これからと言ってしまえばそれまでだが、これから先、暖かく変貌していくのはいつだろうか。

 世田谷のかつてはそんな風景だったと話す人は多い。近くの深沢の邸宅街は大正期に販売された100坪区画の分譲住宅地で玉電の駅から一キロ離れて、田圃の向こうに走る玉電が見えたらしい。現在の閑静な良好な住宅地は大抵、区画住宅が年を経た場所だ。

 港北ニュータウンが人通りの多い暖かな街並みに変貌していく様子がこれからも楽しみで、毎月のように出掛けてしまう。今も地下鉄各駅前の造成工事は活発に行われて、駅ビルが出来上がる風景はとても不況下の日本には見えない。

 夕方には買い物を済ませて外食して帰宅する。昨日と同じように何にもしない日だが、ただ外に出掛けるだけで、心地が満足する。それも家族で出掛けてはじめて充足している。


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