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1996年3月

山口 正司             


1996年3月11日 月 晴     はじめの日記 1996年3月14日 木 晴     点滴をはずす 1996年3月15日 金 晴     一時退院また入院 1996年3月16日 土 晴     男子誕生 1996年3月17日 日 晴     チャコちゃんは元気 1996年3月18日 月 晴     母乳は順調 1996年3月20日 水 晴     春分の日 1996年3月21日 木 晴     見舞い 1996年3月22日 金 晴     交通事故 1996年3月23日 土 晴     準備がととのう 1996年3月24日 日 晴     新生児黄疸 1996年3月25日 月 晴     退院できない 1996年3月26日 火 晴     退院の日 1996年3月27日 水 晴     インターネットのメール 1996年3月28日 木 晴     命名 1996年3月29日 金 晴     満二週間 1996年3月30日 土 晴     鼻づまり 1996年3月31日 日 晴     母

1996年3月11日 月

 チャコちゃんの入院も今日でちょうど三週間。早産の治療薬ウテメリンの点滴を24時間続けている。寝たきりの生活で出産に耐えられる体力が残っているだろうか。

 昨日の法事出席しなかったけれど無事済んだと聞いてほっとした。

1996年3月14日 木  点滴をはずす

 今日で満37週、正規産の範疇にはいる。三週間続いた点滴をはずす。夜9時陣痛。LDRに入る。陣痛途中で収束。病室に戻る。

1996年3月15日 金 一時退院また入院

 午前11時退院。念願のクリームスープとスパゲッティ。三週間振りの帰宅。夜九時李さんから電話。来週火曜日中国に帰国。月曜日訪問するかもしれない。

 その頃陣痛。病院に電話。二時間程様子を見て、陣痛が七分間隔になったら来院を指示される。お風呂にはいる。十一時半陣痛ひどく再度電話。間隔は三分から七分一定しない。荷物を準備してでる。ひどい雨。十二時入院LDRに入る。陣痛徐々にひどく、腰をさすっても一定間隔で押し寄せる激しい痛み。

1996年3月16日 土  男子誕生

 午前二時に分娩室に入る。家族控え室で待つ。三時一分男子誕生。始めて抱く。こんにちは。軽い。ああよかった。チャコちゃんは晴れ晴れとしてさっきまでの嵐のような痛みは消えている。ほっとして朝。午後1時まで一緒にすごす。天気快晴。3040グラム。

1996年3月17日 日 チャコちゃんは元気

 チャコちゃんは大分元気になっている。出産直後の躁状態が少しある。動きすぎるとマタニティブルーが大きいので安静にして欲しい。

1996年3月18日 月

 李さんからまだ連絡はない。やはり明日の帰国だから忙しいのかな。チャコちゃんから電話があった。母乳が始めてでた。28cc。今日から母子同室。

自分も始めて目の前でゆっくり対面できる。

 同級の坂巻信弘君逝去。1994.8.14、ボランティア先北ベトナムからの帰国途中バンコクのホテルで脳梗塞で倒れ死亡。酷暑の中報告書の作成作業で睡眠時間を削りながらまとめていた。過労の疑い。

 李さんは帰国前のあわただしさで来られない。

 夜病院へ行く。母乳は順調によく出る。吸い付くがまだうまく飲めない。黄疸検査は今の所異常ない。チャコちゃんは相変わらず元気。康子ちゃんに出生の連絡。

1996年3月20日 水 春分の日

 朝時計を見たら21日。10万年に1秒しかくるわないというのに。カレンダーをもう一度見て、新聞を見て、確かめた。程なく閏年の仕業と分かったが時計より自分の頭が少し心配になった。名付けのために図書館に行くが春分の日で休み。

 病院に行くと授乳中。態度良好で受乳技術を修得していた。今日は四日目40ccずつの三時間おき。程なく貴浩君、まあくん、かっちゃん一家が訪れた。かすみちゃんが車に酔って気持ち悪くなっちゃったって言いながらもうすっかり元気。表参道から電車で分かれて来た。

 かずおじちゃんはなくなっちゃったけけれど、三兄弟サンフレッチェのようで頼もしい。

 名前がまだ決まらない。字画や希望、流行や音韻、響、考えるほど分からない。14日以内に決めればいいのに他の同日生まれが皆決まっているのがそうとうプレッシャーになっているらしい。もう競争に飲み込まれそうだ。

 平らな所を平穏に飛び立ち無事な人生を送ってくれるように航平っていうのはどうかな。航というのは舟の意味らしい。広々とした伸びやかな印象がある。チャコちゃんに言ったらとても気に入って、もう、こうへい、こうへいって呼んでる。早くこれに決めてと言うが、ほんとにいいのかな。

1996年3月21日 木 見舞い

 ゾエが病院に来た。やはり子育ての先輩で抱き方が様になっている。今日郡山に転勤が決まったらしい。引っ越しまであと一週間それまで毎日夜は会が続くらしい。子供の名付けではどんな名前でも文句を言う人は必ずでるよと言っていた。余り考えすぎるなということかな。

 自由が丘にゾエを送るのもしばらくはないと思うと郡山は遠い。電子メールという柄でもない。

1996年3月22日 金     交通事故

 病院からの帰り道ひもんやのダイエーに行く途中で交通事故にあってしまった。黄色の信号で交差点を直進したところ既に青に変った横断歩道を歩行者が歩きだし、急ブレーキで停車したところに青で発進したオートバイが車の左後部側面に突っ込んだ。両者とも怪我はなくオートバイの損傷はなかった。僕の車は左後部側面が大きくへこんで大破した。エンストもせず走るが何となく左に傾いていく。オートバイの運転手は前方不注意だった自分が本当に悪かったので全額保険会社から支払わせるようにしますと言った。

 お互い仲良く別れたがオートバイの運転手が怪我をしないで本当によかった。ぶつかった瞬間の衝撃音と倒れたオートバイと若者がフラッシュバックのようによみがえってくる。車の修理と保険会社との交渉も頭がいたい。

1996年3月23日 土 準備がととのう

 明日退院。一ヵ月以上の入院で僕も随分参った。家中ごった返していたが、なんとか内山家の協力もあって綺麗に赤ちゃんを迎え入れる準備が整った。しかし、病院の清潔で安全な環境と違って危険と不衛生の中で解らない事ばかりでやって行けるのだろうか。

 そう言うと誰もが大丈夫みんなやってることだもんと言う。だけどみんなやってることだからどうして大丈夫なのかは今だに解らない。そんなこと私に言ったって助けないよと聞こえてしまうのは疲れているせいかな。自分だけは駄目なような気もするし事実駄目な人だっている。名前だってまだ決まらない。

 疲れているのは昨日の事故の後遺症かな。

1996年3月24日 日 晴れ  新生児黄疸

 退院するからというチャコちゃんの連絡を受けて仕度を整え病院に向かった。病室に入ると退院はお預けになったという。

 新生児黄疸で24時間光線照射が必要らしい。照射後明日検査して異常がなければ退院出来るという。おそらくは明日出来るでしょうと言うが逆に明日も退院できない可能性もある。受け付けで小児科の入院手続きをとる。

 出生届はまだなので子供に健康保険はない。自費診療で立て替え後立て替え金請求手続きを後日行う必要があるらしい。

 新生児黄疸はよくあることだと言われる。子供は目隠しをされて青い光の中の保育器に入った。それを見たチャコちゃんは目に急に涙が溜まってきて泣いている。看護婦さんに良くあることだし帰ってから悪くなってもいけないから心配することはないよとなぐさめられるとまた涙が溜まってきている。

 理由が自分で良く分かるから涙が止まらない。落ち着いてベッドに戻って気分を取り戻すように別の話題になるとさっきのことはすっかり忘れたように明るくなる。出産後で精神は不安定になってるんだなと思う。

1996年3月25日 月 雨  退院できない

 今日も退院できない。一日赤ちゃんを休ませて明日再検査の結果退院するかどうかを決めるらしい。光線の照射は終わってベッドサイドに赤ちゃんは戻ってきた。チャコちゃんは明るかった。ゆっくり考えてみると今日退院出来ないことは昨日から明白だったように思う。だったら少なくとも今日は退院できないとあらかじめ知りたかった。

 善意で教えなかったのだろうか。今まで善意で隠されたことはよくある。子供の頃は子供は知らなくていいと良くさとされた。アメリカからの帰り飛行機は確実に遅れて、その日に日本に帰れないことは明白だった。しかし大丈夫とクルーは言い続けた。大韓航空だったがそれは儒教の優しさだろうか。韓国は好きだが、その時はやはり始めから知りたかった。親戚は無駄に成田を往復したのだから。

 坂巻君が亡くなったとき、もう既に亡くなっていたのに重体で倒れたと言われて家族はタイに向かった。ガンの告知もそうだがこの国では聞いたこと以外のことを推測する必要がある。

1996年3月26日 火 曇り  退院の日

 待ちに待った退院の日。何時からこの日を待っていただろう。思い返すと今までの大変だったことがアルバムのように目の前を過ぎていく。

 じゃあ行ってくるねと言って出かけた34週目の検診日のいつもとかわらず出かけたチャコちゃんの顔。病院から掛けてきた電話で早産の恐れがあるから入院なんだってという驚いたチャコちゃんの声。本当に入院しなければならないのか聞いてもほとんどなかった医師の話。ずっと寝たまま24時間三週間うちつづけた充分に納得したとは言えないウテメリンの点滴。寝たままで弱ったチャコちゃんの体力への不安。ひとりで干すチャコちゃんの洋服。そのすべてが今のためかもしれない。

 綺麗に作ったベットにこんにちは、どうぞと始めてのうち。ああ、しあわせだと思う。

 夕飯はカレーを作って二人プラス一で退院を祝った。久しぶりの家族の喜びだと思う。

 おっぱいのんで、ねんねして、だっこしておんぶして、またあした。

 この歌の意味がやっと解って二人で笑ってしまった。

1996年3月27日 水 曇り インターネットのメール

AN様

 昨日は私たち家族にとってニューフェイスを迎えた楽しい日でした。その幸せを増してくれたのは友人から送られた花束とANさんからのメールでした。メールは印刷してチャコちゃんと一緒にわいわい言いながらチャコちゃんも大変だったねなどと思いをはせながら読みました。

夕飯の二人のカレーライスの横には三ページにもわたって印刷されたANさんのメールが置かれて二人で何回も手にとって見ました。

 お尋ねの、ホームページをもつ前ともった後での感想をお話しします。もつ前のインターネットホームページは私にとって情報の収集道具で私はテレビの視聴者でした。もった直後の私は渋谷の街頭のちらし配りのような感じでした。情報は発信されているもののこんな恥ずかしいようなことを世間様に本当に公開するのだろうかと思いました。

  今の印象はもっと冷静になるべく自分のためにしようって思っています。それは返してみればANさんのおっしゃるようにこのホームページの価値や効果が無限に広がっていることが解って、それに押し倒されそうにもなるほどなのです。テレビを見ているときにスターは私に話しかけませんが、私のいつもの楽しみの作者がこうして私たちの姿にエールを送ってくれる経験は始めてだからです。光栄な気分です。だからこそ足元をしっかりとして、自分の幸せの原点をはずさないようにも思っています。

 つまりそれをもすいこまれそうな力がインターネットホームページにはあると感じています。

 リンクのお話しそれはまるでニューヨークタイムスから君のこと記事にしていいかな。と言われたような気持ちでした。嬉しいと感じながら冷静に、あっ差し支えありませんと言うような思いです。ANさんならさしずめ、直接きむたくからパーティの誘いを受けたような感じかもしれません。光栄であると共によろしくお願いしたいと思います。

 今もあちらこちらにたくさん見るANさんへの賞賛の言葉が散りばめられたANさんへのリンクのページの数々。それと同じように私のページにもANさんへのリンクのお願いをきっといつかする日がくると思います。

その日までANさんのホームページがさらによいものになるよう祈っています。

1996年3月28日 木 曇り 航平と命名

 君の名前決めたよ。君の名前は航平君だよ。これからは航平君って呼んだり航くんって呼んだり航平って呼んだりするからよろしく。

 届けを出してきたからもうずっと替えられないんだよ。だから随分と考えた。でも、まだまだ考えていたいような気もするんだ。君のことなら何でもずっと考えていたいようだよ。もっと、もっと、もっといい名前がないかなってね。

 何で航平君って付けたかって言うと広い海に穏やかな中をゆったりと進んで行く船のように人生を穏やかに自由に生きて欲しいと思ったからなんだ。広い空を行く飛行機が地平線を自由に飛んだり遠い宇宙をゆったりと進むスペースシャトルのように、平穏に、静かに、悠然と進む姿を航平君の人生に託したいと思ったんだ。

 君の名前を考える時に消極的な事も思ったんだ。つまり、漢字が一般的じゃないから公平という名にしようかとか、君のお父さん飛行機の仕事してるのと違った先入観で見られないかなとか。でも、そんなときには何時でも君はお父さんとお母さんが是非と望んで決めたんだっていうことを誇りにして欲しいよ。

 君の名前はどうしてもぼくたちが付けたかった名前なんだ。その時の気持ちを何時までも忘れないでね。

1996年3月29日 金 晴れ 航平満二週間

 純子岩見沢より帰京中訪問。一日浩子さん一家ベビーラックを持って訪問の旨連絡。義父さん電話安否問い合わせ。とんこばちゃん日曜日一時訪問の旨連絡。玲子さんへ電話するが不在。

 大工の林さん来る。自動車事故の相手方佐々さんより電話。

 航平くんは受乳の優等生。三時間半ごとに規則正しく泣いた後

 受乳し少し笑顔で大人をあやしてまた三時間ぐっすりと良く寝る。規則正しいので思ったより楽な感じ。出足はなかなかいい。病院にいた時他の赤ちゃんの泣き声はうるさくないと感じたが夜中の航平の泣き声は必ず目が覚め頭に響いて決して眠れはしない。だから、子育ては誰でも大丈夫だよと助言してくれたのかと思う。夜中は概ね一時と五時とが泣き出す時間。畳の上で三人で私、チャコちゃん、航平の順で川の字になって寝る。

 母乳の出は順調で余った分は毎朝花にまかれる。皮膚炎はないがお尻は少し赤い。へその尾の痕はまだ少ししめっていて風呂の後マキロンで消毒。風呂は心地よさそうに入る。台所の調理台の上に置いたベビーバスに入れた後食卓テーブルの上で体を拭く。

 鼻水が家に帰ってからわずかに出る。たくさん泣いたとき鼻くそが飛び出したらすっかりと機嫌よくなった。逆にそれまでは少し苦しそうだった。

 チャコちゃんは未だ元気で食欲は異常に多い。十ヶ月ぶりに何でも美味しいと言いながら夕食後さつまいもをおかわりした。

1996年3月30日 土 夜になって強い雨 鼻づまり

 あきこばちゃん訪問。まあくんは四月より東北に転勤になり、おばあちゃんはかぜをひいたとのこと。命名用紙を壁に貼る。

 昨晩布団の中に入ると鼻がつまった様子で少し苦しそうだった。自分が花粉症と小児喘息でつらかったので同じようになるのではないかと心配になる。ベビーベッドにいるときは大丈夫なので畳の上に敷く布団か、畳の上の埃か、換気か、温度が低いことが原因かもしれない。今晩は掃除機を畳と布団にかけて部屋を暖かくしてみる。

 自分も畳の部屋に来ると鼻が少しつまる。自分の原因は畳の上の花粉かもしれない。花粉症に絨毯が良くないと言うが畳の部屋より絨毯の部屋にいるときの方が心地よい。

 チャコちゃんは淡々と母乳をあげて食事も美味しいようで順調に回復している。高齢出産だって大丈夫よと電話で励ましている。

1996年3月31日 日 快晴 母

 とんこばちゃんは午後一時を大きく遅れて2時半に来た。内山家にて昼ご飯に興じて遅くなった。ちょっと待ちくたびれた。土田さんから着いたかどうか二回電話があった。酔っていた。

 娘のたかは家を飛び出して今は三軒茶屋に一人で暮らしてるらしい。住所が分かったのでこれからアパートを訪ねるらしい。
「訪ねたけれどいなかったわ。銭湯の前で便利そうな所よ。コンビニもあるし。」  というとんこばちゃんからの電話がたかのそのアパートの前からあった。

 どんな生活をしてるか、親だから知りたい。どんな方法で生計を営んでいるのか苦労はしてないか。戻って欲しい。たかはお母さんにどんな様子か時々連絡して欲しい。お母さんはきっと味方になってくれる。


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